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すべての“いま”という時間。
鳥のさえずり、人々の笑い声、窓を打つ風や来客を知らせるチャイム。わたしたちは楽譜には表すことができない音に囲まれ、日々を過ごしている。
こうした“楽譜に表せない音”の存在に意識を向けるようになってから、聴こえる音が膨らみ、より尊く感じるようになったのは最近のこと。そう音楽家の平井真美子さんは語る。
通常ミュージシャンが収録を行うレコーディングスタジオでは、プレイヤーがストレスなく演奏に没頭できるように、マイクのセッティングや演者同士の距離も繊細に検証。雑音と解釈されるものは可能な限りシャットアウトして、音の解像度をあげていく。
「以前は私も、制作環境の整ったレコーディングスタジオのなかで、自身が持つ最大の力を発揮することにクリエイションの重きを置いていたように思います。そうした状況に留まることなく、音楽という枠を超えてより自由に自分を表現してみたい。いつしかそんな感覚が膨らんでいきました」数多くの作品を手がける一方で、心の奥では受け身な気持ちとの葛藤を繰り返していたという平井さん。そんな彼女に2021年の春、坂本美雨のアルバム〈birds fly〉への参加という大きな転機が訪れる。
〈birds fly〉の収録会場は、東京・目白にある自由学園明日館。フランク・ロイド・ライトが1921年に設計した由緒ある歴史的建造物だ。趣は存分にある空間ながら、専門的な音響設備が整うスタジオではない環境で、6つの楽曲とPVを1日で撮り切るという大胆なプロジェクトだった。
返しのモニタもなく、ほかのプレイヤーの音を耳で確認できないなか、平井さんは全身の神経と感覚をフルに稼働させ、ときに第六感も働かせながら、演奏のみならず、アレンジや他メンバーとの調整など、自分ができうることを率先して手探りする時間。
「話し合って明確な役割を決めたわけでもないのに、互いに信頼し、ときに補完しあいながら、自然に環境が整っていく様子を目の当たりにしました。それぞれが心地良さを個々に持って“自転”することで共鳴し合い、世界を描き出す。自分もその景色の一部にいられたことが、とても幸せで嬉しかった」
これと同時期に並行して、2年半にわたり自身が過ごした状況やその日に感じた心の変化を日記のように音で綴る〈とあるひ〉を制作。音楽性やジャンルにとらわれることなく、素直に自分が良いと思った情景を捉え、音に重ねていくことで、自分という存在がもっとクリアになっていった。
〈birds fly〉をきっかけに交流がはじまったWONDER FULL LIFEの大脇千加子とは、2023年開催の「綴る」展において再び創作を共にすることに繋がっていく。
「横に並んで話しながら、ひたすら散歩しつづけている。彼女とはそんな関係かもしれません。同じ場所をぐるぐると巡りながら、日常に潜む何気ない瞬間にふと意識を向けたり、予測とはちがう動きに共感する。そんな小さなことが、とても大切に思えてくる」
WONDER FULL LIFEの鎌倉アトリエを訪れ、空間に響くメンバーの話し声や扉が開閉する音、近くの森に住む動物たちの鳴き声が耳に残った。「ここにいる、いまの自分をそのまま音楽にしたい」。そんな気持ちから、環境のなかにある音に、母屋に置かれていた未調律のピアノと明治時代の古い足踏みオルガンの旋律を重ねていった。
「もしかしたら、以前の私はこれを音楽と定義づけできなかったかもしれません。でも、他愛ない未完成なひとときにこそ、今という時間と自分が在る。その瞬間を音に映すような取り組みは今も続いていて、<とあるひ>はそんな身の回りに漂う“気配”を奏でた作品です。」
〈とあるひ〉には、世の中のめぐりのなかに確実に存在するさまざまなものたちが、呼応し、絡み合い、時間を紡ぎ出す様子が美しく映し出されている。
とあるひ記録集
https://saicoro.shop/items/6663cafd2cd2e12317f88a9b
とあるひ2023初夏
https://nckyoto.thebase.in/items/88348093
TALISMAN weaving by Mamiko Hirai
https://linkco.re/PMXu7cUY
Photo_Yayoi Arimoto
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平井真美子 Mamiko Hirai
音楽家。ピアノと足踏みオルガンを軸に、音と音が混ざり消えゆく瞬間をとらえ、奏でている。最近は“とあるひ”と題し日々の心模様をスケッチした短編曲の創作に勤しむ日々。2024年4月には最新のソロアルバム「とあるひ記録集」を発表。また、劇伴作家として映画、CM、テレビ番組などの音楽も手掛ける。2012年アメリカのS&R Washington Awardを受賞。クラッシックにおいてもソリストへの委属作品を創作するなど、活動は多岐に渡る。